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The Orb
ジ・オーブはスローでソウルフルなリズムを再興させ、明け方のレイヴァーたちへのサウンドトラックである“アンビエント・ハウス”というエレクトロニック・ミュージックのジャンルを事実上具現化したアーティストである。彼らは1992年のアルバム『U.F.Orb』が全英のチャートで1位を記録し、イギリスのテレビ・チャート番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演したことでそのジャンルをより広めるに至った。フロントマンのドクター・アレックス・パターソンのやり方は極めてシンプルだった:シカゴ・ハウスのクラシック曲のテンポを落とし、シンセのサウンドや無名のボーカル・サンプル、ブライアン・イーノやタンジェリン・ドリームといった1970年代のアンビエント・ミュージックの創始者たちの効果音などを加えたのだった。

パターソンは1980年代にキリング・ジョークのローディーとして音楽の世界に入り、1980年代中期から後期のイギリスでのシカゴ・ハウスのブームに影響を受けた。彼はブライアン・イーノ自身が興したEGレコーズのA&R部に入社し、ジ・オーブ名義での最初のレコーディングをジミー・コーティー(キリング・ジョークのサイド・プロジェクト、ブリリアントでも活躍し、その後にKLFの片割れとして名声を得る)と行った。

1989年5月、パターソンはロンドンでDJとしての活動をスタート。ポール・オークンフォールドはパターソンのDJに感銘を受けてクラブ<ヘヴン>ので彼がレジデントを務めていた“ザ・ランド・オブ・オズ”というパーティーのチルアウト・ルームのDJにパターソンを起用した。パターソンのアンビエント・セットはBBCの自然番組の音からNASAの宇宙通信、特殊効果の効果音まで、様々なサンプルや効果音を取り入れたものだった。それらのサンプリングはブライアン・イーノやスティーヴ・ヒレッジといったアンビエントの先駆者たちの作品と共にミックスされた。ある夜、スティーヴ・ヒレッジ本人が“ザ・ランド・オブ・オズ”を偶然訪れたとき、パターソンは彼の『レインボウ・ドーム・ミューシック』をサンプリングしてDJしていた。二人は親しくなり、後に一緒にレコーディングを行った。ヒレッジはジ・オーブのシングル「ブルー・ルーム」にギターで参加(ベースではパブリック・イメージ・リミテッド[PIL]のベーシスト、ジャー・ウォブルが参加している)一方パターソンはヒレッジの一世を風靡したダンス・ユニット、システム7のデビューアルバムに参加している。

ジ・オーブのアンビエント・ハウスへの実際の進出は1989年10月に遡る。22分にわたり、海原の音やミニー・リパートンの「ラヴィング・ユー」をサンプリングしたシングル「ウルトラワールド」が全英チャートでヒットを記録したのである。この曲はインディー・ロック好きの若者たちからクラブDJまでに好まれ、これによりパターソンと(ジミー・)コーティーは1989年12月にはジョン・ピール・セッションに出演を果たした。

イレージャー、デペッシュ・モード、イエロー、プライマル・スクリームなど20を越えるアーティストたちの作品がこの時期ジ・オーブによってリミックスされているが、パターソンは1992年以降リミックスの数を減らしている(またこの時期にジ・オーブの楽曲を他のアーティストがリミックスした希有な例としては、ブレークビーツの先駆者、コールドカットが「キッス」をアメリカでシングルカットされた際にリミックスしたというケースがある)。

アレックス・パターソンとジミー・コーティーは1989年から1990年初旬まで、共に活動していたが、1990年4月に二人はそのパートナーシップを解消した。ジミー・コーティーの参加によってジ・オーブがKLFのサイド・プロジェクトのように誤解されることをアレックス・パターソンが悲観したのがその理由であった。アレックス・パターソンは(キリング・ジョークの)ユースとスティーヴ・ライヒの作品の旋律を取り入れた「リトル・フルッフィ・クラウズ」に着手。この曲はシングル盤として1990年11月にリリースされた。リッキー・リー・ジョーンズとレヴァー・バートンのTV子供番組『リーディング・レインボー』での言葉がサビのフレーズ、そしてこの曲のタイトルとなった。彼らの当時のレーベル、ビッグ・ライフは法廷でこれらのサンプリングの使用について未公表の和解金を支払っている。この曲は全英チャートでのヒットは記録しなかったものの、クラブシーンでは大ヒットを記録した。

ユースはジ・オーブ他のプロジェクトも並行して進めていたため、パターソンはフォートラン5を脱退したばかりの若いエンジニア、クリス・ウェストン(彼がパンクやヘヴィー・メタルをルーツにもっていたことから“スラッシュ”というニックネームを付けられていた)をリクルートした。ジ・オーブがパターソンとスラッシュの二人組となった後の1991年初旬、彼らはギターにスティーヴ・ヒレッジを迎えてタウン&カントリー2で初めてのライブを行った。ジ・オーブにとってロックとエレクトロニックの垣根を取り壊したようなライブは彼らの強みとなっていった。それは色とりどりの照明やヴィジュアルといったホールやクラブの最高の要素に包まれたものだった。

1991年4月にジ・オーブのデビュー・アルバム『アドヴェンチャーズ・ビヨンド・ザ・ウルトラワールド』がイギリスでリリース、高い評価を受ける一方全英チャートでもトップ30に入るヒットを記録した。1991年、パターソンとスラッシュはヨーロッパ・ツアーを敢行し、11月には2回のジョン・ピール・セッションをコンパイル。翌12月にはクリスマス・プレゼントとして『ジ・オーブリー・ミキシーズ』がリリースされた。スティーヴ・ヒレッジ、ユース、ジミー・コーティーによるリミックス集は発売日には廃盤となったが、全英トップ50入りを果たした。

1992年6月にニュー・シングル『ブルー・ルーム』がリリースされ全英トップ10入りを果たした。40分弱に及ぶ全英チャート史上もっとも長い曲となったこの曲で、ジ・オーブは有名なTV番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演。3分に編集された同曲がバックに流れる中、二人は宇宙服を身にまとってチェスに興じ、カメラに手を振った。7月にリリースされたアルバム『U.F.Orb』は宇宙のみに注視するのではなく、そこに息づく居住者たちに目を向けた。このアルバムは全英1位を記録し、評論家からも高い評価を受けた。最初プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーをゲスト・ボーカルに迎える予定だったアルバム未収録のシングル『アサシン』は10月に発表され全英チャート12位を記録した。

パターソンは1993年に全世界契約をアイランド・レコーズと締結、その年の終わりに『ライブ93』をリリース。1994年の7月にはジ・オーブの初めてのアイランドからのスタジオ録音のミニアルバム『ポム・フリッツ』をリリース、アンビエント・ハウスからの旅立ちを感じさせる作品であった。それは最初の2作の間を牧歌的な雰囲気の中で統合失調症的に行き来しつつ、まるでインダストリアル・ロックのような当時ジ・オーブが推し進めていた激しいリズムを加えたサウンドを呈していた。このアルバムは全英アルバムチャートで6位を記録したが、評論家たちの激しいバッシングを受け、パターソンは遂にシーンから姿をくらませたと叩かれた。

1995年はじめ迄にはウェストンは自身のプロジェクトに専念するためにジ・オーブを脱退した。しかし二人はそれぞれの路を歩み出す前に、ジ・オーブのもっとも有名なライブとなった<ウッドストック2>への出演をオービタル、エイフェックス・ツイン、ディー・ライトらと共に果たした。

ウェストンの穴を埋めたのはトーマス・フェルマンだった。ジ・オーブはかつて彼の(ジ・オーブと並んで90年代のクラブミュージックの重要アーティストだった)サン・エレクトリックの曲をリミックスしていたし、また『ポム・フリッツ』のほとんどは彼のベルリンのスタジオでレコーディングされていた。

『U.F.Orb』から3年を経て、遂に新たな進化を遂げたジ・オーブは3枚目のスタジオアルバム『オルヴス・テラールム』を発表した。その後2枚組のリミックス集をリリースした後1997年にはスペイシーな『オーブリヴィオン』でシーンへ戻ってきた。1998年には回顧作品集『U.F.Off』が続き、パターソンたちはその後すぐに5枚目のアルバム『サイドニア』を完成させたが、アイランド・レコーズがリリースしたのは世紀が変わった2001年になってからであった。

2004年の『バイシクルズ&トライサイクルズ』は新しいレーベルサンクチャリーからリリース。続く『オーキー・ドーキー・イッツ・ジ・オーブ・コンパクト・ディスコ』は2005年の暮れにドイツのレーベル、コンパクトからリリースされた。レア作品集『オーブ・セッションズ・ヴォリューム1』と『オーブ・セッションズ・ヴォリューム2』はキリング・ジョーク関連のマリシャス・ダメージ・レコーズからリリース。最近はマイク・オールドフィールドへのオマージュとしてのDJセット“オーブラー・ベルズ”の公演を行った。
CATEGORY: WHO 2011.01.01
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